様々な福祉事業所を取材するシリーズ第2弾。今回は社会福祉法人「太陽の家」を訪れた。太陽の家は県下、いや全国でも有数の規模で圧倒的な存在感を放つ巨大な総合的社会福祉法人である。しかし、現在のような地位を確立する道のりは決して平坦なものではなかった。そのことについて語るにあたり、決して外すことのできない一人の男がいる。故中村裕博士(1984年没、享年57歳)である。 中村博士が九州大学医学部を卒業して整形外科医になった頃、日本の身体障害者を取り巻く状況には大変厳しいものがあった。それに関して象徴的なエピソードを2つ挙げよう。まず、彼がイギリスのストークマン・デビル病院に留学した時のことだ。そこで出会った身体障害者たちは、リハビリテーションの一環としてスポーツに励み、仲間たちと楽し気に汗を流していた。一方、中村博士の診ていた日本の患者たちはできるだけ症状が悪化しないようにと家や病院に閉じこもり、そもそも「リハビリ」という概念が希薄であった。スポーツを楽しむなどもっての他である。もう一つは、1964年に中村博士の尽力もあって開催された国内初のパラリンピック(第13回ストークマン・デビル国際競技大会)での象徴的な光景である。ここでもやはり、欧米各国と日本の身体障害者の相違が浮き彫りになった。具体的な話をすると、大会の競技が終わった後、海外の選手たちはこぞって街に出かけて行った。もちろん遊ぶためである。緊張を強いられる競技をやり遂げた後の浮かれた時間の楽しさはひとしおであったろう。一方、日本の選手たちは彼らのように遊びに行くことはなく、ただトボトボと自宅もしくは入居している施設への帰路に着いた。困惑した中村博士は彼らに訊いた。なぜ海外の選手たちのように遊びに行かないのかと。答えはこうだった。「働いていないのだから、(遊ぶ)お金なんてないですよ」この言葉に中村博士は衝撃を受けた。そう、いくらリハビリを推進してパラスポーツを盛り上げても、この国の身体障害者たちにはそもそもの生活の基礎、つまり「仕事=収入」が無かったのである。そこからの中村博士の動きは素早かった。すぐに太陽の家の前身となる組織を立ち上げ、何人かの身体障害者たちを実際に雇用した。目標は彼らが納税者になること。それは1人前の大人として十分な収入を得ることを意味した。ここで、太陽の家のモットーともなっている当時の中村博士の理念を示す言葉を紹介したい。それは以下の簡単な英文である。No charity, but a Chance!(保護より機会を!)当時、身体障害者に対して何か援助をすることは charity=慈善 であった。つまり、彼らはあくまで「可哀そうで気の毒な、庇護すべき存在」とする社会の認識があったのだ。それに対して先述のモットーはどうだろうか。身体障害者を特別視し善意という名の社会的隔離を志向する、当時の一般的な障害者福祉の考えとは一線を画していると筆者は考える。この理念を基に、身体障害者を次々と納税者にすることに成功した中村博士は、そこで満足せずに今度は世間の名だたる企業に猛烈な営業を行った。障害者雇用に協力してくれる会社を文字通り駆けずり回って探したのである。結果、200社以上の会社に断られたが、ついに成果に結びついた。オムロンの創業者である立石一真氏が中村博士の運動に賛同したのである。その後オムロンを端緒にして、多くの企業が彼の生み出したムーブメントに合流した。ソニー、ホンダ、デンソー、三菱、富士通など、今ではそうそうたる大企業と周知されているいくつもの企業が、身体障害者を雇用するために特例子会社(障害者の雇用を前提とした会社)を設立したのだ。さて、ここまで意図的に身体障害者に絞った話を述べてきたが、それには中村博士が整形外科医であり、まずそこから始まったというだけのことであり、現在はその限りではない。実際、今最も太陽の家の関連企業で応募が多いのは、発達障害者であるという。つまり、同法人は精神・知的障害者の雇用にも積極的に取り組んでいるのだ。様々な統計でも、働いている障害者の割合は身体障害者が最も高く、精神・知的障害者は比較的遅れをとっているのが実情だ。そこを解消しようとする太陽の家の経営は時流に乗ったものであり、合理的であると言える。また、ダイバーシティ・多文化共生社会の実現に向けた取り組みとして、ウクライナ難民の受け入れや、十分な練習環境が無い開発途上国のパラスポーツ選手の支援などにも同法人は積極的に取り組んでいる。そして今回取材陣が訪れた「太陽ミュージアム」の建設や、最近では理事長の自伝出版など、社会に向けた情報発信にも余念がない。太陽の家の概要を知りたいという人は、まずは「太陽ミュージアム」に行くことをお勧めしたい。大人1人500円で職員から丁寧な説明を受けることができ、希望すれば関連企業の見学も可能である。ここまで見てきた、数十年前に理想に燃える一人の若き医師がまいた「労働による障害者の社会参加」という小さな夢の種は、その意思を継ぐ人々、そして障害当事者の手によって咲き誇り、時代を超えて連綿と紡がれている。それはもはや個人的な野望の域を超え、私たちの社会が目指すべき共通の目標に昇華したとすら言えるだろう。繰り返しになるが、ここで中村博士が掲げた理念、そして太陽の家のモットーをもう一度引用し、本稿の結びとしたい。No charity, but a Chance!(保護より機会を!)その力強い声が鳴りやむことは、永遠にない。